エントリー

ムサシ何かがおかしい

去る10月27日(日)に行われた衆議院選挙開票立会人をしました。

会場内で票を数える人々の手際が良いので選挙管理委員会の方に「市役所の職員さんですか?」と訪ねたのですが、はっきりとした返答はありませんでした。後で振り返ると言葉を濁したのだろうと感じました。 

調べてみると、ムサシという会社が選挙の投票箱制作、選挙管理委員会のスタッフ派遣、投票用紙制作、選挙システムなど票数カウント関連を全て独占。これについてマスコミは報道しない自由により無視。

ムサシの票数カウントシステムのサーバーが何処にあるのか不明。当初はバックドアからシステムを管理したようですが、オープンソースでなければバックドア有無についての調査ができません。またシステムに侵入できるということは数字の書き換えが簡単にできるということです。バイデンジャンプを起こした組織と繋がっている可能性も否定できません。

ムサシの公式サイトによれば、株式会社ムサシの筆頭株主は「上毛実業株式会社」2番目が「ショウリン商事株式会社」。両方とも社名の響きだけは中華系ですが真偽の程は不明。

しかし、この株主を調べてみると、株式会社ムサシの大株主である2社は、いずれも名前だけのペーパーカンパニー。

ムサシの代表取締役は小林厚一(ひろかず)氏。彼の住所とショウリン商事という大株主の所在地が同じ住所。

また、ムサシ副社長羽鳥雅孝氏の住所と筆頭株主である上毛実業の所在地が同じ住所。

さらに、

上毛実業(従業員4人未満ペーパーカンパニー)

⇒ 親会社 アルカーブ

⇒ ダヴィンチホールディングス

⇒ フォートレストインベストメント

⇒ ロックフェラー

⇒ ゴールドマンサックス

※安倍晋三氏の祖父岸信介が作った「武蔵エンジニアリング」は別の会社

 

 

参考リンク

【日記】曾祖父の思い出

年老いて死を待つ曽祖父は、徐々に身体が衰えてゆく中で、日記を書いてました。縦書きで一行ずつです。

「今日も同じ また同じ」

ペンのインクも買わずに水で薄めては日記を書いていたので、少しずつ薄くなって、最後は読むのも大変なくらいに薄くなり、途絶えたときが他界のときという日記です。

この曽祖父、つまり我が祖母の父は、染物屋の娘と結婚、二人の間に生まれたのが祖母だったそうです。バァちゃんの家系ってことです。

この曽祖父は手先が器用で文芸に秀でていたことから、磁器を焼き、それを日本趣味で沸き返っていたヨーロッパに輸出していたと伝え聞いてます。

他方、ジィちゃんの方、祖父の家系が明治時代にヨーロッパとの交易をしていたことから、祖父と祖母の繋がりがあったのだろうと想像してます。

曽祖父は米寿で他界したと記憶してますが、初めて会ったときは、この家の蔵に住んでました。真冬でも火の気のない蔵で半袖のシャツ1枚で、いつも座っていた姿を覚えてます。

年老いた曽祖父に祖母と祖父が母屋に住むように勧めても、頑なに蔵での生活を続け、そこで他界した人でした。 身寄りが無かったので娘の嫁ぎ先の世話になったわけです。肩身が狭かったのは想像できます。

我が身を振り返ると、そのときの祖祖父の歳まであと15年くらい。今後を思うと心身の健康に不安を感じながらも、今のところ古希になっても心身ともにギリギリ健康で、いくらかでも社会に求められ活動できてます。本当に感謝に絶えず有り難いことです。明日のことは誰もわからないと思いますが、毎日を懸命に生き抜きたく願ってます。

御用学者

日本では利権学者とか御用学者の力が絶大です。ボクが40年間を過ごしたウィーンとの大きな違いです。

日本の多くの学者が国際会議では相手にされず、適当にあしらわれる間に徐々に日本の学問が孤立の方向に向かってます。

だいたい日本の古代史を紐解くのに外国の学者さんの研究が頼りなんてのは、愚の骨頂です。大和マンジュウが九州が本家なのか、畿内が元祖なのかはどうでも良いことで、九州説と畿内説についてカネに目がくらんだ学者が学説を展開しているような状態では混乱ばかりで研究が進みません。

それが我が国の古代史について、肩書の無い民間人の調査に頼るしか無くなってしまった原因だと思うと、馬鹿さ加減に失望します。

民間の研究が悪いわけではありませんが、古代文字に目に見えない力が宿るとか、論点が変な方向に行ってしまうと、事実を積み上げ仮説を立て真実を求める姿勢が失せてしまうことが問題です。全部とは言いませんが、歴史と真面目に向き合ってない一般人が、何の目的なのかわかりませんが、全く証明できないようなことで人を騙すような本が玉石混交で普通に売られてます。盲が盲に道を訊いて、盲が盲に道を教えるという構図です。

ですから、アカデミックな探求が全てとは思いませんが、先人の残した功績を踏まえて先に進む方が賢い探求だろうと思います。

もちろん、これは古代文字に竜の力が宿るとか宿らないとかの話ではなく、史学として歴史の真実を解き明かすための学問としての話です。おまじないのようなものの存在を肯定したり否定するのは、今の科学では難しいのではないかと感じてます。

明治天皇が使っていた鉛筆

ちなみに東大のレベルは世界では30番くらいです。世界の著名な学者が30人集まれば、その中で一番信用が無い状態です。

学者と呼ばれる人が何十年間も反日の巣窟と言われる日本のテレビに出続けていたら、その人は学問よりもお金を求める人です。学問ってのは、そんな甘いものではないからです。

御用学者は素人を騙すことができても、毎日を研究に捧げる学者たちの中では相手にされません。そういう意味では大馬鹿者です。

もちろん芸術を志す人も同じです。たとえ芸術に大きな代価が付いても、それは結果であり、それを目的としたときに芸術が失せ商売へと変貌します。そういう側面ではマスメディアとそれのみを信じるような烏合の衆は、芸術や文化の敵と成り得ます。

【日記】家系の話、梅鉢紋、三つ柏紋

我が家の家系は大陸から移住して来たガォ氏集団が始まりだそうです。古墳時代に大きな勢力を形成したのですが、勢力闘争で失脚してからは、ガォ(クァオ)家は細切れに解体され、ガォの漢字にもう一つの文字を付け、それぞれを区別しました。多くの分家の中央、ガォ先に立った本家は、世捨て人として中央に留まり神事に関わるようになったそうです。聖徳太子の飛鳥時代を発端とした神仏習合の奈良平安時代の前です。

鎌倉、安土桃山時代から戦国時代にかけても、そのまま勢力争いから離れて神事を司っていました。その結果、戦の結果に左右されること無く江戸時代に入っても神事を司り、内部家老として草薙の剣を守り続けることになったようです。

この家系は今も神官や宮司を表す三つ柏紋を掲げてます。

「柏餅」は端午の節句に食べる縁起ものです。葉が茶色く枯れても新芽が出るまで落葉しないことから『家系が途絶えない』と言われ、長男のお祭りに縁起をかついでお餅を包んだのが「柏餅」だそうです。

柏の葉が神事に使われ始めたのは、縄文時代よりも前の時代だったそうです。高温で焼いて作る磁器は無論のこと、土器も無かった頃だそうです。「柏の葉」の上にお供え物を載せ、手を打って神を呼び祈祷を捧げたことから、神様に対する「はくしゅ」を「柏手(かしわで)」と称するようになったそうです。

他の木の葉ではなく柏の葉が使われたのは、言の葉が神そのものであり、柏の葉の持つ独特の爽やかなオイゲノールの香りに殺菌作用があることから、日本列島の超古代人のコト葉に使われたと考えられてます。

もちろん、3と言う数字は洋の東西を問わず古来から伝わる神数です。

 

ガォ先に立った家系は江戸時代末期には、お家騒動により藩主のお取り潰しから藩を守るために、自ら責任を被り家長は切腹、藩を護った代償に富を報じられ、苗字帯刀のまま幕末を迎えます。

明治時代はヨーロッパの日本趣味に乗じて綱元として貿易業で成功したと伝え聞いてます。神事の一線から離れても、富をもって文化に貢献し、明治に入ったときには、その学才をもって多くの神社仏閣を助け現在に伝えました。これが祖父の生涯でした。

残念ながら明治時代には台風で貿易船が難破したのがきっかけで、3大財閥に経済の覇権を許すことになりました。その頃にはヨーロッパの日本趣味も落ち着いた頃でした。

戦後の混乱時には生活苦から流入してきた半島の非民階層の人々を助けましたが、「マサオさん」と呼ばれた老婆一人を除き、恩を知らず仇で返す人々ばかりでした。

おとぎ話のようですが、祖父の若い頃はチョンマゲだったそうですから、それほど遠い昔の話ではありません。

ちなみに英語で fairy tale/妖精物語と言われる「おとぎ話」は、説いて伝えた話、つまり口伝の意だそうです。江戸時代には主人に仕えた側近で話し相手や相手約を務める人々を「御伽衆(おとぎしゅう)」と呼んだそうです。

梅鉢紋を掲げる土師家で、明治を迎える頃まで墓石職人だった母の家系は、戦後も会社のお伽衆、つまり相談役を努めてました。部署は総務だそうで、雑用係として全ての相談を受けていたと伝え聞いてます。

土師家も古墳時代に大陸から移住してきた集団ですね。分家に菅原道真が居ます。

この家の庭にも樹齢2百年ぐらいの見事な枝垂れ梅や、裏門に門被りの可憐な小梅が残ってます。60年前ぐらいまで孔雀が飛んできて羽を休めていた枝垂れ梅に花が付くと今でもメジロやウグイスが蜜を求めて集まります。花の時期には、風に乗った梅の香りがきっと太宰府まで届くことでしょう。

古代ヘブライからの口伝

おなかがすいた子どもに、一匹の魚を与えれば、

その日だけの食べ物にしかならない。

魚のとり方を教えれば、

一生の食べ物をあげたことになる

 

その他、以下も知られる

老子曰く「授人以魚 不如授人以漁」

(人に魚を与えることは、魚の取り方を教えるのに及ばない)

士農工商の闇

母から 「職業は【士】の付く資格を」 と教えられました。そのためか2人の息子ともに「士」の付く国家資格を取り、それを肩書に仕事をすることになりました。

「士農工商」の「士」です。

士農工商という言葉は、奈良時代に大陸の唐から儒教の考えが日本に伝わったもので、江戸時代の日本の実態とは異なるそうです。

考えてみれば、江戸時代の田舎には「庄屋さま」と呼ばれる長が居て、農業の他に工業や物流を仕切っていたことが知られてます。

小・中学校の教科書に部落問題が初めて載ったのは1972年のことでした。その頃に教育関係者たちが一部の儒学者の学説を正しいとしたことから、学問としての反日活動が静かに浸透してゆきました。ちょうど中共の経済力が増した頃です。それから2000年頃までの約30年間、差別としての「士農工商」が日本人に刷り込まれ続けました。

◆小学校の教科書
「江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人など、さまざまな身分の人々によって構成されていました」
「また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人もいました。これらの人々は、差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などをになって、社会を支えました」(東京書籍「新しい社会6」)

部屋のフクロウ達
「差別」という単語。これが声高に叫ばれるようになった時期と、隣国からの侵略が一致します。1年2年そして数年間は今の動きですが、10年20年そして数十年間は歴史に刻まれ、変えることのできない史実です。取り返しがつかない年数です。最近は自分も含めて日本人が馬鹿の集団だと思うようになりました。無知の知を噛み締めてます。

 

さて、『士農工商』の本来の意味です。

古代中国の四字熟語では身分を表すものではなく、元々は職業に関する言葉だったそうで「全ての職業」「民衆一般」の意だったそうです。

「士農工商」という言葉が大陸の唐から日本に入ってきたのは、まだ武士のいない奈良時代でした。つまり士農工商の「士」は「武士」では無いことがわかります。当時の唐での使われ方と同じで日本でも「士」は知識人や役人を指していました。

母が祖父から受け継いだ「士のつく職業」の意味が、そこであったことを今更ながらに知りました。まさにミネルバの梟です。

噴火の大きさはマグマの噴出量が目安

小規模: ~1 km3
中規模: ~100 km3
大規模: ~100000 km3
(http://blog.livedoor.jp/nara_suimeishi/archives/51865649.html)

 

長年西洋史でした。主にウィーンが関係するハプスブルクの初期近代史です。そして引き上げ後は日本史です。自分は何なのかという問い掛けへの壮大な模索ですね。

残念ながら、半世紀間くらい続いたウィーン時代のように、アカデミックな学びは不可能です。ですが考えようによっては、権力と金まみれが多い現在の日本の御用学者から距離を置くことができるのは、幸いなこととも考えられます。

日本の特殊な事情だろうと理解してますが、日本と半島、支那の多くの人々のポジショントークに騙されないようにするには細心の注意が必要だと感じてます。特に反日のためなら殺人でも何でも是とするテレビと新聞は言語道断です。

 

日本史の探索は古事記が第一歩でした。それが日本の歴史書で最古だからです。言わば種本ですね。しかし、現代語訳の古事記を読んでも理解納得ができませんでした。わからないながらも竹田恒泰さんや竹内睦泰さんの本は古事記理解の助けになりました。

そして、片っ端に古事記関連の書籍を読み漁った結果、古事記が子供の頃に読んだ新約聖書の感触に似ていることに気付きました。昼夜を問わず1点を考え続けている間に、たまたまリンゴの木の下での昼寝痛に頭にリンゴが落ちてきたわけです。

これが古事記から次のステップに進むきっかけでした。

 

聖書は様々な執筆者の思いが交錯して統一性に欠けてます。意図的に隠されたことも多く、理解不能な点ばかりです。

人には生まれた星や生き様により人それぞれが異なります。多くを学び瞑想し、精神的な痛みと努力と苦しみを通して視野が広がれば広がるほど、視野の狭い人に見えないことが見えてきます。その結果、当然ながら理解者は限られてきます。

ですから、確固とした思いを基盤に、他人に何かを伝えるのは至難の業です。視野の狭い人には見えない世界があり、狭い視野を拡げるのは不可能だろうと想像します。ですから不特定多数の全ての人々に理解を得るための努力は、徒労に終わります。残酷ながら、生まれた星が違うのではないかと感じるほどなのです。

 

もちろん、新約聖書に記された時代と地域では、ナザレのイエスという青年の思いが理解できない人が大勢でした。しかも、その多くが野蛮ですから、イエスとその周りの人達には命の危険もありました。

そのイエスについて記すに当たっては、隠蔽というよりも、意図的に触れないようにしたことも多くならざるを得なかったことが想像できます。

聖書は読む人の琴線に触れる素晴らしい内容です。ですが、いくら読んでも、封印されたことが多く、わからないことばかりなのです。

 

歴史の隠蔽は聖書だけでなく、ハプスブルク史と真面目に向かい合った者にとって身近なものなら Privilegium Maius のでっち上げにも見られます。もちろん古事記も同じなのですが、これに思い当たるまで3年間以上の時間を要しました。

古事記の大きな嘘に気付くと、本当の日本史が次の課題です。とどの詰まり、辿ってゆくと縄文時代に行き着くことになります。

 

縄文文化は1万数千年間も続きました。長いだけに地球の地殻運動と気候変化、ヤポネシアゲノム研究や土器などの工芸品の発生、日ユ同祖論、もちろん稲作の発祥と度重なる移民の流入も関係します。

 

そして、ご存じの方には当たり前のことなのですが、謎の鍵を握るのが火山噴火らしいところまでたどり着きました。恐竜が隕石の落下で滅んだのと同じように自然現象の威力は人知を超えてます。縄文文化も東北地方を除き火山噴火を契機として大陸へと拡散していったようです。ポンペイで起きた噴火よりもっともっと大きな自然現象でした。

中国大陸の稲作についても発見された稲の種子が日本古来の種と一致することが証明され、さらに大陸のものは発育不良だったことも判明してます。九州で育っていた稲の北限を超えていたわけです。稲作が半島から来たとかシナから来たというのは、反日渡来人のポジショントークだったわけです。

さらに、謎の鍵は縄文時代が1万数千年間も続いたことです。ヨーロッパ文化の始まりは数千年前のメソポタミアからの流れです。古代エジプトもそうですが、せいぜい数千年前のことで、1万5千年前に文化を形成したところは日本列島以外には無さそうなのです。驚くべきはその文化が途絶えることなく現在まで続いてきたことです。

 

10月27日は衆議院選挙です。地球史上で唯一無二の日本文化と大和民族が歴史から消えようというその瞬間の選挙です。せめて自分だけでも烏合の衆に加わらず無知の知を胸に刻んで生き抜きたいと願います。

21才、お骨も墓も残らず

なぁ、お前たち知ってるかい?

牛や馬は一頭、鳥は一羽、魚は一尾、とこう数える。

何故か?


実は動物の数え方はなぁ、
死んだ後にに何が残るか
で決まるんだ。

じゃあ、ここで一つ聞きたい。

俺たち人間はどうだ。

「一名」

そう、名前だ


オレタチ人間は死んでも名前は残るんだ。

お前たちは、
自分の大事な大事な名に恥じない生き方ができているか?


一回きりの人生、
後悔せぬよう意識すべきことは

能力ではなく生き方でな、

知識ではなく行動。


読むべきものは
空気でも本でもない

自分の心だ

明日人生が終わると思って
生きなさい。

永遠に生きると思って
学びなさい。

それじゃぁ、元気で、

行きます。

 


---
21歳特攻隊兵士が、
残された後輩兵士に言った!

---
特攻は、墓に納める骨が残らない。
墓が無くても

「靖国の桜の元に集まろう!」

カスタムアイコン生成

Googleマップでマイマップ管理するときのカスタムアイコンの作成方法です。

https://osato512.hatenablog.jp/entry/2024/02/18/171906

田母神さん

エリート街道をまっしぐらに上り詰めた司令塔がこれに気付くのは難しい。本当に立派な方なんですね。第29代航空幕僚長(空軍の最高司令官)田母神俊雄さん。

ページ移動

ユーティリティ

2024年11月

- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

検索

エントリー検索フォーム
キーワード

ユーザー

新着画像

新着エントリー

Feed