縄文人と弥生人
- 2024/01/09 19:49
- カテゴリー:日記とメモ
【九州における3種の民族集団(弥生時代)】
弥生時代の九州には大きく分けて3種の集団があり…
それぞれ民族、言語、文化が違いました。
- 「北九州弥生人」
- 「西北九州弥生人」
- 「南九州弥生人」
- 「北九州弥生人」は、朝鮮半島からの渡来人であり、いわゆる「倭人」と呼ばれる民族集団です。
その起源は9000年前の西遼河流域の雑穀農耕民です。
約5000年前に朝鮮半島へ南下をはじめ、遼東半島に伝わった稲作を伴い、3500年前に朝鮮半島に移動し無文土器の担い手となりました。
さらに2900年前には北九州に到達し弥生文化を成立させました。
言語は日琉祖語(日本語)です。
この民族集団は、現日本人のゲノムの9割を占める主要な祖先集団です。 - 「西北九州弥生人」は、民族的には、北九州弥生人(倭人=渡来系)と、縄文人(在来系)の混合のようです。
山地に海が迫っており平地が少なく農耕に向かないため、倭人(稲作農耕民)が進出が遅れ、縄文以来の生活様式を保った民族集団のようで、弥生時代の遺跡も貧弱です。
使用言語は不明です。 - 「南九州弥生人」は、縄文人(在来系)の民族集団です。
使用言語は不明ですが、少なくとも日琉祖語(日本語)ではなく、アイヌ語族かオーストロネシア語族のいずれかであり、この地域の言語が日琉祖語に置き換わった(和人と同化した)のは、少なくとも古墳時代以降でしょう。
種子島の名称は、アイヌ語の「タンネ」で「細長い」という意味があり…
屋久島は、アイヌ語の「ヤク」で「鹿」という意味があります。
もしかしたらアイヌ語族に属する民族集団だった可能性があります。
この南九州地域はシラス台地で、総じて農耕には適さず、そのため倭人の進出が遅れたのでしょう。
隼人と呼ばれる民族集団が歴史時代まで住んでいました。
ちなみにこの地のサツマを投馬国に比定する意見がありますが、そもそも倭人が住んでいなかったので、それはあり得ませんね。
隼人は現在も住んでいます。隼人は、揚子江流域の北部にいて湿潤米(ジャポニカ米)を栽培し、銅剣・銅鏡を用いて祭祀を行っていましたが、朝鮮半島を経由しないで南海から九州に渡来したと考えられています。
隼人は薩摩隼人(薩摩國)、大隅隼人(大隅國)、日向隼人(日向國)の三部族からなっています。
隼人は女王國のような政権国家ではありませんでした。隼人はたびたび反乱を起こしました。702年に日向國が分割され、薩摩國府が現在の薩摩川内市に置かれて国守が配属されました。和銅六年(713年)には日向國が再分割され、大隅國府が現在の霧島市に置かれて国守が配属されました。これで九州は九か国となりました。それでも薩摩隼人と大隅隼人は、大和政権からの強い独立意識をもっていました。
西暦 720年に隼人の大規模な反乱が起きました。反乱は、征隼人持節(じせつ)大將軍・萬葉歌人の中納言・大伴旅人(おおとものたびと 665-731)によって翌 721年(養老五年)に鎮圧されました。隼人は一年数か月にわたって政府軍に抗戦し、多くの犠牲者を出しました(斬首獲虜合千四百餘人『續日本紀』)。
隼人は技術、芸術、武術に優れ、その後朝廷によって重用されました。大隅隼人が多く移り住んだ現在の京都府南部には「大住」の地名が残ります(JR西日本大住駅、京田辺市立大住小学校、同大住中学校など)。